[書評] 『魂の退社』 稲垣えみこ著

日本語版

「思い返せば小さい頃から優等生で、さらに時代の追い風も受けて、いい学校、いい会社へと恵まれすぎた道を歩いてきた。」(3頁~4頁)

 

こんなことをあっけらかんと思い、おめおめと書けていた人が、会社を中途退社するに至る。幼少時から親や周囲によって敷かれた一流企業のエリート会社員の道、それも天職とまで見なしていた大新聞社の記者の夢を果たしながらも、定年まで十年以上も残して、その職を辞する。そればかりか、会社社会と化した日本の現状を原理的に批判しながら、それに抗する形での自らの幸福を発見する。初めて目にした際には、少しばかり意味不明と感じられたタイトルも、全編を読み終えてみれば、会社からの「魂」を含めた著者の人間的解放の軌跡を描いた本書を端的に示しているものと合点した。

 

しかし、世間は甘くない。大会社の高級サラリーマンから無職の中年独身女に「身を落とす」その旅立ちは、厳しいはずである。さすがに優等生、逡巡もすれば揺れ動く。そして、生計はもちろん、理論的武装を含めた心の準備もそれなりしたうえで決行するのだが・・・そんな中年独身女の心意気と実践、そのちょっと危なっかしい精神と生活の記録が、アフロヘア―という大新聞社の中堅記者としては少々珍奇なヘアースタイル(これまた先に触れた、自立への挑戦の準備運動に他ならない)が、まるで狂言回しとなって展開されていく。面白くないわけがない。

 

例えば、著者が漠然と辞職を考え始めてからの人生行路には、アイロニー、サスペンス、スリルといった読者を引き付ける要素がわんさと詰まっている。四十代も半ばになって突如としてアフロヘアーとなって周囲を驚かせると同時に、なんと「もて始める」という意外な展開。会社からの自立を目指しているからこその斬新な記事の連載で、危機に陥っていた新聞社の建て直しに一役買う。アイロニーそのものである。さらには、その貢献によって会社からはかつては夢だったほどの高い評価を受けながらも、断固、中途退社を敢行する。人が羨み讃嘆するほどに見事な出処進退である。そうしたライフストーリーの変転自体が生彩に富み、スリリングである。

 

但し、本書の魅力は、そうした著者の人生の転変だけではない。例えば、先の引用文の後段は次のようになっている。

「そうして得た貴重な安定収入も仕事も将来の年金も、アフロが一瞬にして奪っていったということになる。どうなんだアフロ。」

 

自分の人生に劇的な変化をもたらした<犯人>のように擬人化された自分のアフロヘアーに対して、<被害者>たる著者が問いかける体裁。そこには、長年の記者経験がもたらした文章の切れ、読者の関心を惹くコツを弁えた展開、ちょっとチョイ悪(現代日本のお洒落アイテムである)を気取った「お茶目さ」などが凝縮されている。

 

さらには、そうした魅力満載の文章の通奏低音のように感知されるのが、長年の新聞記者生活を経ていながらも、世間づれしない生真面目さ、良家の子女的な清楚さであり、それが何にもまして本書の魅力だと評者は思う。

 

それはともかく、そうした退社への決意の過程で、次第に明確になってくるのが、現代日本の会社というシステムに対する疑義である。そしてそれが高じて、政府でさえも頼り切っている会社社会システムという現代日本の原理的病巣への批判に発展していく。その批判は明快で、切れ味は鋭く、射程は広くて長い。

 

ところが、それが読者には快い。何故か。そこには毒づくようなところがないからである。批判対象に対して、唾を吐いたり、後ろ足で砂をひっかけるような気配がないのである。会社に最後のご奉公のつもりで危機に陥った会社の再興の一役も買う。立つ鳥、跡を濁さずの上を行っており、昔流の仁義を守り、義理も果たす。なんとも爽快である。

 

さらには、会社に対する感謝どころか、オマージュまでがちりばめられている。読者としては、良い会社に働いていたのだと羨ましくなるほどである。そんな良い会社だったのにそれを捨てたのだから、著者が問題にしているのは、一個の会社における一人の人間の不平不満というようなレベルにとどまっているものではないことが、誰の目にも見えてくる。現在の日本の会社、そしてそれによって、成り立っているように見える日本の社会のシステムという大問題、さらには、そのシステムに苦しみながらも、それにしがみついている会社員すべての心身と魂に関わる大問題とそれに対する著者の個人的挑戦の物語が本書の究極のテーマであることが、実に具体的に読者に迫って来る。

 

要するに、著者の会社や社会に対する個人的挑戦が、読者一般にも当てはまる普遍性を獲得するわけである。しかも、まるで徒手空拳のそうした個人的な挑戦が決してじめじめとしたものにならないのは、既に述べた著者自身に備わった人間的な美質に加えて、随所にちりばめられた良質のユーモアのおかげなのだろう。そのユーモアのセンス自体もまた、著者の人間的美質と別のものではないのだが、そうした数々の美質が相まって、会社社会日本の重圧にあえぐ読者たちに、その重圧から魂を解放して、自立した幸福の発見の旅に出ましょう、一緒に頭をあげて楽しく生きましょう、という呼びかけが聞こえてくる。

 

但し、そんな本書にも不満がないわけではない。会社社会日本に対する批判などには目新しさがないし、少々、単純化が過ぎて、嘘に近接しているような部分もなくはなさそうである。あげくは、そんなことも知らずに大新聞の社会部の記者をしていたのかと呆れてしまいそうなところもある。

 

しかし、その種の部分もまた、著者の無知や素直さを気取った書き方戦略の結果という風に読めないこともない。冒頭の引用文も、著者の自己批判として、相当にカリカチュアライズされたものであり、そこには著者の書き方戦略が込められているわけである。

 

会社社会である日本の立身出世教育とその文化にどっぷりとつかって、無知な会社人間の人生を生きてきたからこそ、それから脱皮を遂げることになる著者の経験談は信憑性があり、説得力が増す。著者の性格と読者との対話を組み込んだ書き方などをすべて戦略的に溶かし込んで書かれた、「うぶな会社人間の会社社会に対する独立宣言」といった趣もある。

 

だから、たとえ、本書で批判されようとも、誰もそれほど傷つきはしない。著者は二者択一を要求しない。選択肢があるということを提示したに過ぎない。著者は会社を辞めたが、会社を辞めない人でも、著者の議論を参考に自立した人間として、会社員生活を全うすることも十分に可能である。あくまでオールタナティブの提示なのであって、それがすべてという独善的な臭みがないのである。党派的ではなく、普遍的だという言い方もできるだろう。もちろん、その点が気に入らないという人がいてもおかしくないのだが、たとえそうであっても、十分に楽しめる。

 

因みに、本書の現代的性格といったことも最後に少し。その昔、『清貧の思想』という本が話題になってよく売れた。ドイツ文学者で小説家だった人の本で、如何にも古武士然とした古今の立派な人々の智恵の教え諭しだったような記憶がある。それがバブルがはじけた頃、1992年のことだった。それに対応する現代の「清貧の生き方」が本書ではないのかと思った。ミニマリズム、スローライフ、消費社会からは距離を置いて自立して人生を愉しむことの勧めの当事者は、アフロヘアーの無職の中年女性で、深刻ぶらず、時には深刻ぶったとしても、子供っぽい茶目っ気、そして時には、ウインクまでが透けて見えそうな感じ。偉い師匠様のご託宣ではなく、見たこともない友、或いは同志への問いかけである。まさに民主的、大衆社会的である。政治は民主とは正反対の傾向が加速度的に強まっているが、その一方で、書き方のスタイル、読者の趣向は確実に変わった。日本はなんとも変わらない世界だとついつい慨嘆しがちな評者なのだが、三十年も経てばさすがにトレンドは変わった。その変化を存分に愉しみたいものである。

[評者] 玄善允(大阪経済法科大学アジア研究所客員教授)