公益財団法人・高麗美術館を訪ねて(2017年度東アジア文化都市京都協賛)

고려미술관6

人を包む親しさの時空間としての美術館

この美術館を訪れるのは三度目で、前回は寅年にちなんだ展示の時期だったから、今から既に6、7年前のことになる。今回は東アジア文化都市京都の協賛イベントの一つとして、在日と日本人とによる協業関係の結晶として評価が高い高麗美術館の現況を紹介する記事を書くために訪れた。

さすがに6月も中旬の日中の日差しは厳しい。しかし、この季節の京都にしてはむしろ清々しく感じられる京都市北区の閑静な住宅街に、創設者である鄭詔文さんの旧邸を改築した瀟洒な美術館がひっそりと佇み、その向かいに付設された研究所の風情もまたなんとも落ち着いていて、気持ちを和ませる。美術館の庭には朝鮮の石像などが所狭しと陳列されて、設立者その人と在日の仲間たち、そしてその人たちの志に共鳴した日本の碩学や市民たちの気概が、肌にしみこんでくる。

入場に際しては靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。これまた一般の美術館のどこかしら澄ました印象とは大いに趣が異なり、まるで屋敷の主人に招かれた親しい客人のような気持ちになる。

僕が伺った時にはちょうど、学芸部長の鄭喜斗さんによるギャラリートークが始まったところだった。老若男女20名ばかりが、創設者の意志を継いだご子息・鄭喜斗さんの懇切なガイドに耳を傾けていた。客人に対して、屋敷の主が丁寧に語りかけるといった感じだった。


人と人の環、上田正昭さんと美術館

今回の特別展は「上田正昭と高麗美術館」である。上田正昭氏は日本古代史の碩学で、創設以前から鄭詔文さんたちと密接な協力関係を築きあげ、設立後には理事、そして二代目の館長などを長期にわたって歴任してこられたが、誠に残念なことに昨年、逝去された。そこで、美術館を設立し、その評価を高め維持するにあたっての大功労者であった上田正昭氏を回顧するとともに、美術館そのものの創設以前と以後の全歴史を振り返り、その初心を改めて確認する場となっている。設立の準備段階からご尊父の鄭詔文氏や上田正昭氏に寄り添ってこられた鄭喜斗さんにとっては、公私にわたって感慨がひとしおなのだろう。ユーモアをふんだんに交え、訪問客に対する配慮がいたるところに感じられる解説をされながらも、上田正昭氏の遺稿などの説明の際には、ついついこみ上げてくる気持ちの昂ぶりを抑えきれないご様子だった。

高麗美術館は鄭詔文さんという在日の実業家が、ある時、ふと魅入られて入手するに至った李朝の白磁を契機に、故国の文物の収集に取り組みはじめた。そのうちに、当時の在日の文学者を代表する存在だった金達寿氏、古代史の碩学である上田正昭氏、そして、人気の文筆家であった司馬遼太郎氏その他、数多くの文化人の支持と助力を得るようになった。その成果として、先ずは、季刊雑誌「日本の朝鮮文化」の刊行、次いでは、「日本にある朝鮮文化の遺跡を巡る旅」の企画によって、日本の古代史の再検討を遺跡の現場から厳しく促し、その後の古代史ブームの先駆けともなった。そしてついには、私財をなげうって私設美術館として創設に至ったのが、現在の公益財団法人・高麗美術館なのである。

要するに、高麗美術館は在日と日本の学者はもとより一般市民との協同の賜物である。人々の国境を超えた「民際」の先駆けであり、そのシンボルでもあった。当時はそうした潮流の一翼を担う僚友であった司馬遼太郎氏の業績については、その後、為政者やその威を借りた知識人やメディアによって歪曲され、あげくは政治的に利用されることになる。しかし、その司馬遼太郎氏をも含めた日本の知識人と市井の人々が、朝鮮の文化を慈しみ、日朝両国の友好を本気で願っていた。そうした真情があるからこそ、東アジアにおける日本と朝鮮の歴史を正しく認識する一助となる美術館の設立を志していた在日の人々と、親しくそして楽しく、古代文化の遺跡を歩きまわり、志を共有していたのである。ちょうど、美術館で上映中のフィルムには、そんな姿が繰り返し映しだされていた。

そうした高麗美術館設立に至る努力の牽引者たちの中でも、アジア的規模と過去と現在という広い視野を備え、その社会的地位と行動力に基づく市民との懸け橋としても、格別な存在が上田正昭氏であった。その人と美術館とが一体なった足跡をたどることは、高麗美術館のみならず、在日と日本とそして人々の協同へのたゆまぬ努力の足跡をたどることでもある。

市井の人の一念と「民際」

僕の世代にとっては、この美術館の創立前史とその後の歩みはまさに青春時代にあたる。たとえ、「遺跡巡り」に実際に参加したことがなくても、書物や新聞やテレビなどのメディア、さらには人々の口伝えで、後には美術館の創設に至る人々の誠にエネルギッシュで新鮮な活動の数々、それがついには切り開いた日本の歴史に対する視座の変革の息吹といったものを、時代の空気として呼吸していた。すっかり忘れてしまっていた、あの若かりし頃の自分の生きざまを回顧する貴重な機会にもなった。

司馬遼太郎、森浩一、金達寿、鄭貴文、鄭詔文その他、著名な学者や文化人や美術館の設立の中心人物たちに加えて、美術館に展示された写真や上映中のフィルムには、それらの人々の知友の一人であり、僕にとっては青春期の導きの師であり、結婚の際には主礼までしてくださった方の満面に笑みを浮かべた姿も映っていた。

「ああ!」と思わず呟きが漏れ出た。その「ああ!」には、岩盤を突き破り、そこから一条の光が差し込み始めていたあの時代と、そうした過去がまるで嘘であったかのように、閉塞し、「勝ち組」の空疎な掛け声だけが渦巻く現代、その落差に対する苦い感慨がある。しかし、そうした良き時代に対するセンチメンタルなノスタルジーにとどまるものではない。うんざりするほどに暗く感じられがちな現在にも、やはり光が射しているという事実の発見と驚きも含まれている。少なくとも、あのような時代が実際にあったということを、今さらのように自分の眼で再確認し、しかも、その意志が脈々と今にも引き継がれているという事実に対する今さらながらの驚きなのであった。

美術館が今なお多くの学者、文化人、そして名もなき市民たちの支援によって存続しているということばかりか、先にも触れた鄭喜斗さんその他のスタッフの方々の創意工夫の根拠になっているであろう志の受け継ぎが確かになされている。人々の志のバトンが時代を超えて引き継がれていることが、ひしひしと感じられた。

4.美術館の今 -引き継がれ、常に更新されている遺志-

美術館の学芸主任の金泰蓮さんに現場からの生の声を聴かせていただいた。そのお話の随所に、美術館の草創期かつ黄金時代の人々の遺志が、後続世代にも確実に受け継がれるばかりか、更新されているという事実が感じられたので、その一部だけでも紹介したい。

「高麗美術館は1988年に日本初の朝鮮半島の美術専門の美術館・研究所として開館しました。創設者の鄭詔文は幼くして離郷せざるを得なかった母国の人々の生活や美意識を日本の人々や在日の若い世代に伝えようと私財を投げ打ちました。この30年間、多くの人々に支えられて続けてこられました。

この間には日韓の文化交流が活発になって、韓流ブームが起こり、入館者数が増えたり、またその逆の時もありました。しかし、その理由をもっぱら状況のせいにするのは当事者である私たちとしては責任回避になりかねません。美術館に携わる主体として、私たちに何が不足しているのかを懸命に考えて、対応策を打ち出すべく努めています。例えば、来館者の趨勢の変化、そしてその理由などを正確に把握するように努めています。また広報の仕方などについても試行錯誤を繰り返しています。

今回の上田先生に関する展示については亀岡市の後援をいただいて、亀岡からの来訪者が目に付きます。亀岡市では上田先生を知らない人はいないほどに著名なばかりか、人望も厚いことを実感できました。しかも、高校の教師時代、大学教員時代の教え子だった人たちも多く、みなさん、先生との思い出を話していかれます。従来は来館者のマジョリティは圧倒的に女性だったのに、この展覧会に関しては男性が目立ち、すごく熱心に観覧なさって、滞在時間もはるかに長くなっているようです。上田先生は美術館の物心両面に亘る、まさに大黒柱だったことを今更のように思い知らされる毎日です。

今年は館長の在任中にお亡くなりになった上田先生の一周忌ということで、特別展示を行っているのですが、この成功を受けて、しかも、来年は折しも美術館創立30周年ということもあって、上田先生も含めた美術館ゆかりの人々に関する展示も準備することになりそうです。

美術館の運営については、財政的な困難から解放されることはなく、スタッフも、この美術館を守りたいという気持ちで働いています。創立者の意志を継ぐ、妻である呉連順理事長を中心に、公的な存在としての美術館の責務を果たしていきたいと考えています。来館者や維持会員、それらを含めた多様な人々の物心両面の支援には、本当に感謝しています。大きな支え、そして励ましになっています。

来館者は京都府下の住民が約4割で、その他日本各地からおいでになります。また、韓国からは、全体の4%ほどですが、いろんな情報を頼りに来館されます。その他、日本の高校生などの修学旅行の途中でという場合もあるのですが、昔のように観光バスで大勢が一挙にという形ではなく、自発的に幾人かがタクシーに同乗して訪ねてきてくれます。京都の在日の学校の生徒たちももちろん来ます。それでも、美術館が位置する北区の人々がやはり多く、地域に愛される美術館を目指し、さらに広報を推進したいと思っています。地域の学校にチラシを配って回ったりもして、幼いころから朝鮮半島の美術に接していただけるように、中学生以下は無料にしています。

来館者ノートに記されているメッセージが、すごく刺激になっています。感動したり、励まされたりすることが多くあります。日本の学校に通っている在日の子どもが、ここに来て初めて自分の祖父母の国の美術を見て、来てよかったというような感想を書いてくれることもあります。展示を見て、生き方を考えるきっかけになっているような言葉もあります。そうした事例は、創立者の次のような言葉と確実に共鳴しているように思えます。

「同胞の若き人々よ、どうか知って下さい。あなたの民族は、日々の生業そのものを文化とする豊かさをもって、生きてまいりました。あなたにもその豊饒な生命が息づいているのです。この度の開館におきまして私が望み願いますことは、すべての国の人々が私たちの祖国の歴史、文化を正しく理解することで、真の国際人となる一歩を踏み出して頂くことでございます。朝鮮・韓国の風土に育った「美」は今もなおこの日本で、言語・思想・主義を超えて、語りかけております。どうぞ、心静かにその声をお聴きください」(高麗美術館の誕生、鄭詔文、1988年)

  在日を生き抜いた一世の遺志と夢を、2、3世である私たちの創意工夫を重ねながら、京都の地から多くの人々に届ける努力を、これからも日々重ねていこうと思っています」(学芸主任、金泰蓮氏談)

「上田正昭と高麗美術館」趣旨文

昨年3月13日急逝されました高麗美術館第二代館長、上田正昭先生の提唱された、国を超えた民衆交流の実践と東アジアへの歴史視点は、高麗美術館の基本理念である『民際』へと受け継がれています。1969年「日本のなかの朝鮮文化」創刊当時より、上田正昭先生が高麗美術館創設者の鄭詔文や作家・金達寿、司馬遼太郎とともに日本各地へ残した足跡はゆうに三十を超えます。こうした日本各地にある渡来人の痕跡を発掘する作業は、古代朝鮮半島と日本の交わりを地方の視点から見直すという歴史の新たな視座を開きました。今回、上田正昭先生所蔵の『広開土王碑拓本』を展示し、雨森芳洲をはじめとした朝鮮通信使資料を公開することで上田史学の幅広い視野を紹介いたします。

展示品題目

『広開土王碑拓本』(上田正昭所蔵)4面

雨森芳洲肖像(複製)、交隣提醒(複製)、馬上才之図、朝鮮通?信使参着帰路行列図、宗対馬守護行帰路行列図、徴毖録、上田正昭先生の書斎再現と上田先生の遺品等、白磁壺、青磁象嵌高脚杯、鉄砂帆船魚文壺など約80点

4月3日~7月17日(月曜日開館、水曜日休館)、中学生以下無料、一般500円、大高生400円

公益財団法人・高麗美術館603-8108 京都市北区紫竹上岸町15、075-491-1192, http://www.koryomuseum.or.jp

東アジア文化都市2017京都

高麗美術館とその創設者・鄭詔文たちの歩み

1918年:鄭詔文、朝鮮の慶尚北道に生まれる。

1925年:両親と共に来日。

1955年:李朝白磁と遭遇し魅入られて以後、陶磁器など故国の文物の収集を始める。

1962年:小説家の金達寿、兄の貴文と三人で日本の朝鮮ゆかりの遺跡などを歩きはじめる。

1965年:上田正昭と出会う。

1969年:貴文と共に朝鮮文化社を設立、季刊雑誌『日本のなかの朝鮮文化』を創刊。

1972年:「日本の中の朝鮮文化遺跡めぐり」を始める。現地講師に上田正昭、金達寿。

1973年:司馬遼太郎の発案で「雑誌『日本の中の朝鮮文化』を励ます会、発起人は司馬遼太郎、上田正昭、金達寿。

1981年:『日本の中の朝鮮文化』50号で休刊。

1987年:高麗美術館設立準備会発足。

1988年:財団法人高麗美術館認可。鄭詔文が理事長、林家辰三郎が館長、理事には上田正昭、司馬遼太郎など。

1989年:鄭詔文死去。高麗美術館研究所を開設し、所長には有光教一が就く。

1998年:第二代館長に上田正昭が就任。

2016年:上田正昭館長が逝去。第三代館長に井上満郎。

2017年:東アジア文化都市に選ばれた京都市の一連の文化事業に協賛し、特別展「上田正昭と高麗美術館」開催(4月3日~7月17日)など。