『まちの本屋』田口幹人、ポプラ社

동네서점 일본어판표지

知を編み、血を継ぎ、地を耕す

まち、商い、ひとと本、そしてひとびとの輪


「まち」の本屋の申し子

東北の田舎町で祖父の代から続く本屋の跡取り息子として生まれ、幸いにも本が好きで、まちの人々の寄合所としても機能している家業の本屋が好きで、さらには、その本屋を生かしている「まち」とそれを含む地域が大好きな子供がいた。そんな子がやがて長ずると、あたかも当然なように家業の跡取りとなって祖父や父の志を受け継ごうとする。

ところが、その志あるからこその努力にも関わらず、地方の激しい人口減少など地域格差の深化という日本全体が抱える構造的問題に加えて、出口が見えない出版不況のあおりをくらって、ついには店をたたむことを余儀なくされる。

しかし、見る人は見ているもので、地方都市の中規模の本屋が書店員として彼に誘いをかける。そして、「まちの本屋の申し子」である彼がそんな再チャレンジの好機を逸すはずがない。失敗の経験に基づいた厳しい現状認識と将来的展望に基づいて、同じような志を持った人々を見つけ出し、協力しあいながら、様々なアイデアを実行に移し、驚くほどの成果を生み出す。そしてその延長上で、まちの本屋の今の新たな可能性を開くに至る。

本書には、そんな「まちの本屋」の現場における悪戦苦闘の報告と、今後に関する柔軟でいながらも初志に根差した展望と実践の方途、さらには、衰退する地方再生の道筋についての提案などがちりばめられている。状況は厳しく、それは構造的なものであるが、それを座視しながら不幸を嘆いてなどおれない。日本の書店業界ばかりか出版業界の深刻な現状は、日本社会の構造がもたらしたものであることは確かなのだが、それだけではない。その業界で働く彼をも含めた個々人が招来したものでもある。そうした厳しい自己認識を手放さない。だからこそ、「個々の場、あるいは地方からでも」から、「地方だから、そして、規模が小さいからこそ、あるいは、自分を見つめ地方を見つめる志を持った個人とそんな人々の輪だからこそ」、できることがあるのだと発想を転換して、昂然と頭をもたげる。

このように、厳しい現実に根差しつつ自立を図ろうとする個々人、そしてその輪がつむぎだす「協業」の多彩な試みの、まことに精彩に富んだ報告は、読者を励ます。そして、何かと困難があるだろうが、やってみようかという気にさせる。柔軟な知恵と粘り強い実践の具体例が満載で、読者の「元気ホルモン」を呼び起こす。

「まち」、「ひと」、「商い」、そして「本」の肌触り

本書は成功した実践報告であることは確かなのだが、その種の書物にありがちな「傲慢」な臭みが全く鼻につかない。それはおそらく、書き手の謙虚さ、そしてそれが醸し出す柔らかですべすべした「肌ざわり」のせいだろう。その謙虚さが本書の数々のキーワードの連関を保証している。「まち」、「ひと」、「商い」、そして商品たる「本」の肌触り、それらが分かちがたく結びついて好印象を醸成し、そしてもちろん説得力に満ちている。肌にしみいってくる。

したがって、そこで展開されている熱意、真面目さ、創意工夫、努力を覚悟して、随所で披瀝されている工夫を参考にすれば、誰にでも同じようなことが可能かもしれないと、本屋ばかりか、本などとは無縁の業種や状況におかれた人々にも希望を与える。

資本と規模の論理が何よりも優先されて、人々がもっぱら上下に階層化され、横の関係はすごく希薄になった。人間相互を辛うじてつなぐのは金銭と利害だけといった殺伐とした世界、そんな中で働き、生活することが習い性になってしまった現代人の倦み疲れた心身を刺激する。

本屋は「商い」という現実に立ち返り、「文化を売る」などといったたいそうで、傲慢な考えに立たない。主体は商品たる本であり、お客たる読者である。そのお客の身になって、その視線を参考にして、お客にサービスを提供する書店員としての分際を弁える。「分際」、「身の丈」という自己規制、それが決して抑圧的なものとしてではなく、むしろ職業性の自覚、それが故の専門性の自覚に導く。このバランス感覚、これが出版業界の底辺から、その最前線へと書店員を送り出す。

お客目線は従来の書店の常識への安住を許さない。社会は恐ろしい勢いで変化している。ネット、地方都市の衰退、・・・しかし、人々は活字に飢えており、良質の情報に飢えており、それらの情報に基づく議論が交わされる場を求めている。そうした機会を、場を準備することが書店の役割でもある。書店員は人と本、人と人、人と地域とをつなぐ媒体にすぎず、その媒体としての役割を実践的に追及する。そこから書店員の主体性が現れる。役割に徹することで主体が奪還される。人が動き、考え、人がデータを活用し、システムを活用する。本書では常に、ひとが中心にある。そしてひとが暮らす「まち」が思考と実践の場である。

キャッチコピーの宝庫としての本書は、日々のPOPのためのたえざる努力の結晶である。しかも、それは現場感覚の発露である。現場主義!それでいて志は高い。したがって、現実というものは、いたずらに否定するものとしてではなく、どのように活用するかという実践的な課題として立ち現れる。

本とは何か

本はもっぱら書き手のもののように思われがちだったが、そこに読者も主体として取り込めば、本は書き手と読み手の協業の結晶体ということになる。しかし、実は黒子がいて、それが編集者というのがこれまでの僕なんかの常識で、その編集者の力が弱まった(書き手も編集者もまともに推敲や校正をする誠実さも能力もない場合もある)、あるいは、逆に異常に強まった(その究極がゴーストライター)りもする。

しかし、本書を読んで、実は書店員が大きな役割をしているという事実に初めて目を開かされた。本を売るという仕事のシビアーさ、それとあいまった職業倫理のようなものが、書き手や読み手や編集者の傲慢さを打ち砕く。もっと重要なことは、それらさまざまな関係者の協業を成立させ、それが本当に有効で協業に値する内実を持つためには何が必要かを、本書は教えてくれる。もちろん、相互のもたれあいではなく、自立した責任主体となった各分野の人々の真摯な協業こそが、単なる足し算にとどまらず、有機的な協業体の成果としての本を、本たらしめる。読書が成立し、相互交流である書評が生まれる。文化を売ったりはせず、ただの商売人とつつましく語る人が、実は立派な読書論、文化論が発せられる。

本を創ること、それを他者に読んでもらえることの幸せと一体となった厳しさ、それをこのように楽しい本を読みながら学ばせていただいた。本を好きな人も嫌いな人も、商売が好きな人も嫌いな人も、この本の対象はすごく広大である。この本を読んでいるうちに、自分が置かれた現場で自分の条件に誠実に向き合うこと、そしてその仕事で関わりあっている人々の労苦に思い至って、協業の道を拓いていく努力をすることの喜びを既に疑似体験している気持ちになった。