済州の海村での生活に学ぶ

이지치 사진1 2

いきなり飛び込んだ済州の海村でのイニシエーション


飛びこんだ海村での暮らし

 1994年夏、旧左邑杏源里に住み始めた私は、四方八方からの思わぬ質問にすっかりたじろいでいた。済州語はもちろん韓国語もまともに話せなかった私に、村のサムチュン(おじさん・おばさん)たちは片言の関西弁で尋ねてくる。私が生野区に住んでいたことを知ると、「生野区のどこや?」と聞いてくる。「中川西です」と答える私に、「ほんなら、ちょっと行ったら阪神パチンコがあるやろ」と男サムチュンは物知り顔になる。「わしは、去年まで阪神パチンコの裏に住んどったんや」。次いでは、鶴橋の焼肉屋で先月まで皿洗いをしていたという女サムチュンが登場といった按配。済州島に来たつもりが、大阪の路上にいるような気分になった。植民地期、最多で島民の約4分の1が渡日していた歴史は、なおも続いていることを少しは知った上でその実相を学ぶべく飛び込んだ私なのだが、今さらながらにそうした歴史の持続を思い知らされた。そしてその後の毎日の暮らしは喜怒哀楽も交えて刺激的で充実したものだった。


 サムチュンたちにとって、私が村に来た理由などどうでもいいことである。日本から学生がはるばるやって来て暮らすのだから生活できるようにと、1週間ほどでスッカラ(匙)から布団にいたるまで家財道具が一通り、村中からかき集められた。そして次は仕事だという。家を無料で貸してくださった安基男さん・朴天烈さん夫妻(共に1931年生)と、時に長男である晟珍さん夫妻と、さらには洞内のサムチュンたちと、ニンニク、大豆、大根、パンプン(痛風に効くらしい)、西洋人参畑へとついて行き、ささやかながら小遣い稼ぎもさせてもらった。そしてついに村の海に入れてもらえることになった。

海の畑と陸の畑

 杏源里の生業は、「陸の畑」と「海の畑」とで成り立っている。海ではヒジキ、テングサ、フノリ、ウニ、サザエ、アワビ、トコブシ、タコ、アメフラシなどを採集する。済州島のなかでもチャムス(裸潜水漁者)が多い杏源里では、各戸ごとに陸の畑と海の畑の比重が異なる。ヒジキは村の共同採集作業であるため各戸の参加義務があり、テングサは漁村契(村ごとの漁業組織)加入者だけの共同作業である。私は朴天烈さんの長男の妻代理ということでテングサ採りから始めた。初体験だったが、浅瀬でも十分採集できるので素人でもかなりの量になり、売ってもらって10万ウォンの小遣いを得た。それが、サムチュンたちから「大した手柄だ」という評価をいただいた。次いでは海中に潜ることになった。私が海に入るという情報はあっという間に近所に伝わり、女サムチュンたちがあちこちから必需品を集めてくれた。

 チャムス(潜嫂)というと、海中に潜りアワビやサザエを採る女性たちが思い浮かぶだろう。その裸潜水漁をムルジルという。しかし、ムルジルとは本来、ムル=水、チル=仕事の合成語であり、水の仕事を意味し、その意味どおり、済州島のチャムスたちは海中に入って貝類ばかり採ってきたのではなかった。植民地期以前、海の畑での採集物は、中央への献上品であるアワビや肥料にするホンダワラ、そして自家消費用のワカメ、テングサ、貝類などであった。日本の近代漁業が進出し、朝鮮の海が植民地体制に組み込まれていくなかで、採集物の種類と量は市場の動向とともに変動してきた。採集物がアワビ・サザエに特化していくのは、解放後のことなのである。1980年代に入ると、済州島ではサザエとヒジキを主とする対日輸出が伸張し始める。また同じ頃、杏源里が位置する北東部では農薬の普及でタマネギやニンニクの大量生産が可能となり、生活に余裕が感じられるようになった。その結果ムルジニの苦手な朴天烈さんは海中に潜ることをきっぱりとやめ、陸の畑作業に専念するようになったのである。

暮らしを結ぶ「交換」

 準備も整い、私は近所のサムチュンたちとともに海へ出発した。2月の海は冷たい。しかし、海を前にしたチャムスたちの熱気が伝わる。技術と体力を兼ね備えた上軍チャムスたちはあっという間に水平線へ、そのあとを中軍が追い、60歳代中心の下軍のサムチュンたちが私を誘い、ポイントを指してくれたので、そこへ飛び込んだ。海中でオモリがずれて身体が傾いて困っていると、誰かが腰を引き上げてくれた。ムルジルは個人の出来高制である。しかし、近くのポイントへ入った者同士は海中で互いの様子を見ている。どこで何を採っているかはもちろんだが、いるかいないか(アワビに手をはさまれて上がってこれなかった人も珍しくない)を確認しているのである。私はあまりの寒さに3時間ほどで陸に上がった。サザエを6個採集し結構うれしかったが、一緒に海から上がったサムチュンが、サザエを少し分けてくれた。それは、部外者だからということではなく、収穫の多い者があまりに少ない者へ少しばかり融通するという、チャムスにとっては当たり前の「心遣い」なのである。すごく申し訳なくて、どうしたらよいのか商店のお姉さんに相談したら、軍手1つでも返しておけばよいという

 こうした「心遣い」は、受け手のもらい得で終わることはない。いや、終わらせてはいけないのである。そうした「心遣い」とその返礼は、村の生活の様々な局面で多様なやり方で交わされる。たとえば1人暮らしの年配チャムスは、その採集物を近所の男性が妻の分と合わせて運搬してもらい、その代価としてタバコ1箱を渡していた。また、ムルジルを引退した老人が、頼まれもしないのに親戚のテングサ干しを手伝って、それを少しわけてもらう、といった按配なのである。返礼には統一された基準があるわけではない。何をどれくらいしてもらったのかをきっちり見ておいて、いつかどこかで何らかの形でお返しをする。そうした細々として柔軟な「交換」が、この海辺の村の日々の暮らしを成り立たせていた。