舞台芸術プロデューサー、関西舞台芸術研究所代表・併設ギャラリー「アトリエ風姿花伝」主宰

한국전통방일예술단

“自国の伝統文化の素養を基盤にすることによって、他国の文化を尊重する気持ちが芽生えてきます。文化交流で韓国や中国に行った時、芸術文化に携わる現地の人々と交流すると、それぞれの国によって考え方が違うことを知りました”


略歴

1988年より、舞台芸術公演の企画・プロデュースに関わりはじめる。

1996年、関西舞台芸術研究所を設立し、関西を中心に全国各地で、主に行政から委託された諸種の文化事業の企画・プロデュースを行う。能、狂言、文楽、邦楽などの古典から演劇、クラシック音楽、ダンスなど多様なジャンルの公演のほかに、シンポジウム、講演会の企画・プロデュース、さらには冊子の編集などにも携わる。

2002年より、文化庁から委嘱された「伝統文化子ども教室事業」に関わり、次世代に対する日本の伝統芸能の伝承・普及に努める。

2007年から3年間、大阪府主催「芸術・スポーツ体感事業」にて、府内の高校にて多種多様なワークショップを行う。それに伴い、学校の教員対象の伝統芸能ワークショップを活発に企画・プロデュースし、学生や教員が伝統芸能を実際に体感する機会の模索・研究を始める。

その他、諸外国、特に東アジアの諸国における伝統文化の継承・普及機関との交流事業などにも、積極的に関与している。

現在、和文化教育学会理事、西宮文化協会理事、NPO法人潤理事長、楽劇学会会員。兵庫県芸術奨励賞選考委員、兵庫県知事賞「ともしびの賞」選考委員。

随分多様な活動をエネルギッシュになさっておられるようですが、それについてお話しいただけませんか?

―諸種の文化事業の企画・プロデュースをしています。主に行政(府・県、市等)の文化事業です。行政から委託を受けて、企画案を作成し、すり合わせをした上でその後の活動に入ります。すべてがオリジナル企画なので、事業の構成が重要であり一番エネルギーを使います。チラシ作成から業者に委託する場合もあるので、チラシのデザインについてデザイナーと打ち合わせすることからはじまり、出演者との打ち合わせ、会場のスタッフとの打ち合わせ等々、打ち合わせで明け暮れます。

事業のたびに、終始、息が抜けず、緊張の連続です。それだけに、終わってお客様たちの満足そうな顔を見ると、安堵感と同時に達成感があります。それはもちろん、出演者やスタッフがそれぞれ100%以上の力を発揮して下さった結果です。彼ら彼女らがそうできるように私は「黒子」に徹します。事業が無事に終了し、お客様たちに喜んで帰っていただく・・・そのことが何よりも嬉しく、苦労が吹っ飛びます。私はそのような経験を重ねて、ますますこの仕事が大好きになり、いまだにこの仕事を続けているのです。

それと並行して、教育の場において、伝統芸能に触れる機会の普及・振興にも力を注いでいます。2002年から文化庁は和文化を学校教育に取り入れるようになりましたが、学校の先生方は和文化を専門的に学んでおられず、和文化の体験や知識がほとんどありません。それで、教員を対象にしたワークショップを行うようになりました。ちょうど、2007年から3年間、大阪府「芸術スポーツ体感授業」にて府内高校53校で90回、学年やクラス単位のワークショップ(能・狂言、文楽、落語などの伝統芸能や和食などの和文化を中心としたワークショップ)を企画運営させていただきました。学校の先生方と話しているうちに、「今、教育はどのような方向を向いているのか?どのような学問を学んで教員になっておられるのか?」などが知りたくなり、仕事の傍ら、教育学部に編入学し、さらに大学院に進んで教育学を学びました。大学院は修士課程まで終え、今でもワークショップなどを通して研究を継続しています。体験から学ぶ体感学習は教育の重要な部分であると捉え、日々、さまざまな教育活動に取り組んでいます。

和文化に関わるワークショップを通じて、日本文化を知る・学ぶことによってグローバル教育が目指せることを発見しました。自国の伝統文化の素養を基盤にすることによって、他国の文化を尊重する気持ちが芽生えてきます。文化交流で韓国や中国に行った時、芸術文化に携わる現地の人々と交流すると、それぞれの国によって考え方が違うことを知りました。これからの時代を担う子どもたちが、自国の伝統文化を学ぶことによって、互いの文化を尊重できる気持ちを育み、真の意味での国際文化交流ができるのではないかと思っています。

そのような活動を始められた契機はどのようなことだったのでしょうか?

―1988年に、西宮市主催「酒蔵文楽」公演のお手伝いを文化プロデューサーの河内厚郎さんから頼まれたことがきっかけです。それまで文楽を見たこともなく、公演制作についても全くの素人でしたが、持ち前の好奇心でワクワクしながらやってみようと思いました。主催者との打ち合わせ、出演者対応、舞台設営、受付などをお手伝いする中で、公演全体を実体験で学びました。それと同時に文化事業が人々の目を輝かせ、心を豊かにするさまを目の当たりにして、衝撃をうけました。その2年後には、「酒蔵文楽」制作の責任者になっていました。毎年「酒蔵文楽」公演は順調に続いていました。ところが、1995年1月、第6回「酒蔵文楽」の直前に阪神・淡路大震災が起こり、会場であった酒蔵が全壊して、公演ができなくなりました。その翌々年、古来からの西宮と文楽の縁を活かして、西宮市が文楽セミナー公演として予算を組み、再開にこぎつけました。「文楽と遊ぶ」と銘打ったセミナー公演はその後毎年行われ、来年1月には21回目を迎えます。

震災の直前の1994年、兵庫県主催「兵庫アジア太平洋青少年演劇祭」(総合プロデューサー・河内厚郎氏)に事務局の一員として参加し、事業全体に深く関わりました。この演劇祭は、中国、韓国、ロシア、そして日本からはピッコロ劇団と桐朋学園の演劇を学ぶ若者たちが参加しました。国際的なイベントなので言語の問題その他様々な困難を抱えた事業でしたが、この時の体験で、少々のことでは動じない自信を培えました。準備中および実施中は目が回るような忙しさで、体力の限界を感じたこともありましたが、無事終了した時、大きな達成感を覚え、幸せでした。演劇祭での人と人とのコミュニケーションの中に芽生える心の交流は、何事にも代えられない貴重な体験でした。この経験こそが、現在も私がこの仕事を続けている第一の理由です。

日本の伝統芸能に限定される理由は何でしょうか?

―やはりアイデンティティーを持つことが大事だと考えるからです。自らの位置をしっかり把握してこそ、真の国際人になれると思うのです。伝統芸能を知ることは子どものみならず大人にとっても大きな意味があります。先人たちが創り上げてきたものを学んでしっかりと受け継ぎ、未来に向かって自国の文化を創造していく――歴史の流れの中に自分がいるという自覚をもたらしてくれるのが伝統文化であり、伝統芸能の学びからそれを知ることができるのではないでしょうか。伝統芸能に限定しているわけではありませんが、今、社会で求められているジャンルでもあるため、企画の依頼もとても多いのです。その他のジャンルを排除しているわけではなく、依頼さえあれば他分野、外来の芸術文化もいといません。

困難とかやりがいといったことについてお話していただけませんか?

―常に格闘、そして模索の連続です。企画を請け負ってその公演が終わるまで、漏れていることはないか、準備ミスがないか、と常に緊張しています。出演者やスタッフに対する心配りにも神経を使います。それだけに、毎回、事業に関わっている方々と「協働している」という喜びがあります。これまで様々なお仕事をさせていただいてきたのも、多くの信頼できる人々に恵まれてきたからです。とても感謝しています。

公演のプロデュースは、自分自身をプロデュースすることだと思っています。学生時代、私は「落ちこぼれ」で「いじめられっ子」でした。しかし、その経験や体験が現在の私の肥やしになっているように思います。当時の私はいじめに耐えるために、「私をいじめている人は私をいじめることで自分のつらさを吐き出しているのだから、私も役に立っているんだ」といったように、一方の考えだけでなく、他方の考え方をあえて見出し、そのように思うように努めてきました。このように物事の見方を変えることで多面的な考え方ができるようになりました。その経験は、現在のさまざまな仕事に大きな助けになっていますし、それこそが私をここまで成長させてくれたと思います。私の云う「プロデュースの仕事」はまさに黒子的な仕事であり、その事業に関わるすべての人たちが事業の成功という一つの目標に十二分に向かっていけるよう、さまざまな心配り気配りをするのが、「森村流プロデューサー」と考えています。とはいっても、さすがに最近は体力の限界を感じます。後継者育成も重要なことですから、プロデューサー養成講座といったことも行っています。あくまで“森村流プロデューサー”であって、まずは「プロ意識を持つ」ことの大切さ・重要性を説いています。

“来るもの拒まず”で、どのようなお仕事も感謝の気持を持ってしてています。一つ一つオリジナリティをじっくり考え、私なりの企画をこれからも行っていきたいです。そして、微力でも伝統芸能の継承・普及にも力を注いでいきたいと思っています。

インタビューを終えて

「ないものの強み」ということをしきりに思った。「実際にない」わけではないのだが、少なくともご本人はそのように自分を位置づけるからこそ可能な謙虚さを忘れずに、現場で自分のできることをする。あまりに分からないことだらけで、あまりにも困難が多いものだから、もう開き直るしかない。そうなると怖いものなどない。そうした「素」の「裸」になった人間の可能性というものを、僕はお話をお聞きしながら、ずっと思い描いていた。ずぶの素人の森村さんに声をかけてこの道に引き込んだ文化プロデューサーの河内厚郎さんも、さすがに名仕掛け人、そんなことまで見抜かれていたのではなかろうか。だとしたらすごい眼力である。それになにより、その期待に応えるばかりか、さらに自らの道を切り開いてこられた、尽きることのないエネルギーが、僕の前に座っておられる森村さんの細い体のどこにひそんでいるのか、まさに脱帽の想いだった。